最近、「若者の考える力がない」という企業の人事担当の方々のお嘆きをよくお伺いする。
本当に考える力がないわけではない。乏しい、という意味だ。
古今東西、今も昔も「最近の若者は・・・」というフレーズ、聴きますよね。
これは「自分たちとは違う、異質なものはよくないものだ」というただそれだけの話にすぎません。
世代間ギャップは当たり前だし、一人一人の人間に違う個性があることも当たり前。
それを認められない大人の言葉、というだけ。
しかし「最近の若者は考える力が乏しい」という言葉について考えてみた。
自分たちはもっと考えていた、ということだ。
私はその考えは一理あると思っている。
理由は3つ。
1つ目。
40代オーバーの方々は、〝頑張れば報われる時代”を経験している。
だから、何とか自分の頭で考えて頑張ろうという子ども・青年時代を過ごしている。
しかし、特に20代以下の若者は、うまれた頃から景気の良い時代を知らない。
それゆえ、頑張っても報われるという発想はない。
だとすれば頑張ってもムダ、考えるだけムダなのだ。
だから考えないというバッドサイクル。
2つ目の理由。
近年、合計特殊出生率が1.3人前後を推移している。家族には子どもが一人、多くて二人。
子どもが少なければ、親はその子を大切にする。そして様々なことに口を出す、手を出す。
子どもが転ばないように、失敗しないように、粗相しないように先回りする。
すべてお膳立てされた状態で子どもたちは生活しながら大人になる。
社会に出るまではすべて親がしてくれていたのに、働き始めたら急に自分で考えて動きなさい、と言われる。
酷な話だ。
今まで考える機会を与えられなかったから、考える力が乏しいだけ。
3つ目の理由。
豊か過ぎる社会だ。
私たちが子どもだった時には、それほど遊ぶおもちゃも充実しておらず、自分たちで遊びをつくって遊んでいた。
私がよくやっていたのは、ゴムとび、ひまわり、どろけい、めんこ、ケンパなど。
皆さんはどんな遊びをしましたか?
ルールを自分たちで決めたり、おもちゃがない分、おもちゃになりそうなものをつくったり。
その中で必ず「創意工夫する、考える」というプロセスがあった。
しかし、今は考える余地のないおもちゃのなんと多い事。
そして、生活に必要なものは非常に便利になり、創意工夫する必要は全くない。
身の回りのものはほとんどすべてお膳立てされている。
至れり尽くせりの商品・サービスのおかげで考える必要がない、考える機会がなかったのだ。
と思うと、考える力が乏しいとか、衰退している、という言い方よりも、
「考える力を鍛える機会がなかっただけ」という言い方の方がよいのではないかと思う。
現に、若者や子どもたちは二極化している。
考える力のある子と乏しい子。
単に経験の差だと私は考えている。
子どもたちには、たくさんの考える経験をさせることが、子どもたちのためだ!!
ついつい、子どもの為に何かをしてやりたくなってしまう気持ちもとってもよくわかるが、そこは我慢することが子どものため。でも放任とはまた違う。
私自身もそれを忘れないようにしなくては。
働く若者にも、考える機会をたくさん与えることで、彼らの力を大きく伸ばすことができる。少し時間はかかるが、育てることが会社にとっても様々な点で大きなメリットになることは間違いない。
育てることは、育てられる方も育てる方も成長するのだ。究極の人材育成となることを覚えておいてほしい。